最近の家は、完璧に仕上げることが当たり前になっています。
が、
「満つれば欠ける世の習い」という諺を見ればわかるように、
完璧なものは、あとは衰退して行くだけ・・・
という発想から、
日本では、建物をわざと完成させないことがよくありました。
有名なものでは、
- 知恩院の瓦の葺き残しや、
- 日光東照宮の逆さ柱がありますが、
一般の住まいにおいても、
たとえば、押し入れの中の壁は仕上げない。
なんてことをやっておりました。
家は単なる物になった
おそらく、今、そんなことをすれば、
「手抜き工事だ!」
と大騒ぎされると思います。
でも、それは、家に対する想いそのものが変わった証拠です。
もはや家は、単なる物でしかありません。
そう、工業製品と何も変わらないのです。
自分も住まいも未完成
もちろん、それが悪いわけではありません。
新築でン千万も出すのだから、完ぺきを求めるのは当たり前のことに思えます。
でも。
私自身は、どうしても、そこに不自由さを感じるんです。
だから。
敢えて、わざわざ、古い家を探します。
そもそも、古い家に完ぺきさは不釣り合いです。
古い家には、傷んでいる部分は当然あるでしょう。
見た目だって、綺麗ではありません。
でも。
それらを、
- 何とかしていこうとする自分自身も、
- 何とかされることを待っている家も、
どちらも未完成なのです・・・
そして、
未完成であるということは、そこに、いろんな可能性が広がっている・・・
ということに他なりません。
自分らしく完成させる
確かに、
昔の家づくりにおいての「未完成」は、
迷信というか魔除けというか、そんな意味合いが強かった・・・
多分、それだけのことだったように思います。
が、今は、それよりも、
「家を使って、可能性を自分らしく完成させていく」ことに意味があります。
今までは、多くの人が
「みんな、そうだから」という理由で、当たり障りのない「完ぺきな器としての家」を購入してきました。
でも。
本当に完成させたいものは何なのか?
他人の意見ではなく、自分たち自身で考えてみることです。
まとめ
今回は、「わざと完成させない家」について取り上げてみました。
そのことで感じるのは、
「家づくり」というのは、結局、生き方の象徴でもあるということです。
確かに、
「完成したものの方が、今は揺るがないし、これからも大丈夫」のように見えるでしょう。
でも、長い目で見た時、変化しないものは、進化もしないので、いつか淘汰される運命なのです。
コメント